息の発見


 「息の発見」
   五木寛之著 対話者 玄侑宗久(作家・禅僧)
   株式会社平凡社 
   1400円+税
 
五木寛之さんの“発見シリーズ”は、これまで「気の発見」「霊の発見」と読んだことがあり、3冊目となる。
玄侑宗久さんの本では「禅的生活」を読んだことがあり、対談としてどんな話がでてくるのか興味深い。
 
この本は呼吸法を通して宗教観や健康観、さらに話の合間に雑学が飛び交い、読みやすく面白かった。

それにしても、両者とも何でもよく知っているというか、あれを言ったのは誰だっけ?とか、どの寺だっけ?とか、そういうのが全くないのが本当に感心するところだ。
どうしたら、そんなに記憶の倉庫にあれこれきちんと収めて、パッと取り出すことができるようになるのだろう。
(まあそうじゃないと、こんな立派で有名人にもなれないし、本にもならんはな・・・) 

ただ、「霊の発見」を読んだ時も思ったのだが、五木さんは博識豊かなあまりか、相手の言ったことに対して相手の説明を待たずに、こうですね、と自分で話をとりあげて説明してしまうようなところを感じる。
せっかくの対談なのだし、もう少し聞き役にまわって相手の意見をどんどん引き出していくともっと面白いのにな〜と思う。

でもそう思っていたのはこの本では最初だけで、前半は五木氏をたてながら少々遠慮気味な(に感じた)玄侑氏も中盤以降になるとユーモアと広い博識を交えたお話で応戦?していて、対談に奥行きを感じられた。
 
以前から疑問に思っていたことだが、腹式呼吸というけれど肺で呼吸するよなあ?・・・と思っていて、この本でも話題にあがっていた。

玄侑氏曰く、「内呼吸まで入れれば、呼吸は肺だけではない(肺は外呼吸)。息をするときに意識を持っていったところに気血は運ばれるから、そこの血液との酸素交換が盛んになって温かくなり、意識をどこにもっていって息をするかでその部位の調子もよくなる」ということ。
 
まあ最終的には明確な答えというのもなくて、幼児が眠っている時のおなかのうねるようなふくらみを例に、呼吸は自然な運動として変幻自在で魅力あるもの、という曖昧な説明で終わってしまったけれど、きっとそんなものなんだろうな。

話に出てくる雑学も面白かった。
・和式のトイレでの蹲踞(そんきょ)の姿勢が腹式呼吸に相当役立っていた。ハイヒールはヴェルサイユ宮殿の庭が排泄物だらけだった(8万人以上暮らしていてトイレがなかった!)ので、それを踏まないように爪先立ちの靴ができた→西洋はハイヒールでつま先立ちのお尻を突き出した姿勢で胸式呼吸。
・豚の呼吸に学べ〜ブタの骨つきスペアリブの筋肉が赤いのは、吐く息が長く毛細血管まで酸素が行き渡り、血流がよい証拠で、豚は吸う息が早く、吐く息が長く豊か。
・禅の道場で肉・魚を食べないのは、基本的には睡眠時間がよけいかかるから(野菜の消化は圧倒的に速い)。
・「腹が減っては戦ができぬ」のは人間だけ。動物は「腹が減らなきゃ戦ができぬ」で、本来ならば、腹が減っている時に生物は最大の力を出せるようになっている。
・中国では老眼のことを「花眼(ホワイェン)」という。花が美しく見えるためにはあまり細かいところが見えるんじゃなくて、全体がよく見えなきゃいけない。それが老眼。
 などなど・・・
 
この本を読んで学んだこと。
それは、医学や健康ブームについても言えることだが、その時代にはこれがいい、正しいと言われていたことが後になって実はこんな害があったということはあるわけで、呼吸法についてもある方法が万人に向くわけではないし、自分がいいと思った方法を見つけるしかないということ。

呼吸の一番いい状態とは、音もしなければ滞りもなく、さらに無意識に呼吸をしていることを意識した上で忘れる、呼吸三昧な状態になること。
つまり、命への気づきであり、瞑想状態なのが呼吸の境地。
 
自然になるのに、不自然なことをやらなければいけないのが人間の業・・・。 
う〜ん。雑念が多い私には呼吸法(瞑想)を極めていくのはかなり難しいぞ。

玄侑さんが考案した“喫水線呼吸法”(吸った息がブルーのイメージで体の中に喫水線を想像しながら息を吸って、金色の光となって出ていく)は、イメージすることで呼吸に集中できそうだし、金色の息が散りばめられていくっていうのも素敵。

心がザワザワした時にでも、試してみよう。