『雑草が教えてくれた日本文化史~したたかな民族性の由来~』

獅子座に太陽が入り、いよいよ夏本番!というムードですね。

雨がザーッと降って蒸し暑い…という天候は、雑草にとっては好都合なようで、わっさわっさと草が生い茂ってきましたが。

草を取らねばと思いつつ、暑いしすぐまた伸びるしなあ…と後回しにしていたのですけど、やる気が出るか?と、図書館でなんとなく目についた「雑草」に関する本を読んでみました。

こちらは、「雑草」というテーマから眺めた日本の特色を語っている内容で、結構面白かったです。

 

 

この本の中には、以前ラジオで「nature」を「自然」と訳した話を聴きかじったことに通じるようなことも書かれてあって、時間が経って回答をもらえたような気分にもなりました。

 

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著者が言うには…(内容抜粋)

この「自然」という概念そのものが、明治の文明開化によって西洋からもたらされた輸入品なのである。

明治時代に「Nature」という言葉が西洋から入ってきたときに、その訳語がつくられた。それが「自然」である。日本には「Nature」を意味する言葉がなかったのである。

・・・

物の存在というのは、その中にいるときにはなかなかわからない、外から観察したときに、初めて認識できるものである。

自然という概念も、自然の外から見たときにつくり出されるものである。西洋の人たちにとって、自然とは、人間の世界とは別の世界であった。だから「自然」を認識することができるのである。

西洋では神が人を創り、人のために動物や植物などの自然が創られた。西洋の人たちの認識では、自然は人と相対するものであり、支配することを許された所有物だったのである。

「自然を大切に」や「自然と共生する」という自然保護の概念は、人間という存在が、あたかも自然とは別の世界に存在するようなニュアンスをもっているのである。

一方、日本では動物や植物は、人間と同じ命をもつ対等の存在であった。日本人にとっては、人間もまた動物や植物と同じように、自然の一部であり、自然の中に内包される存在だったのである。

建物の中で暮らしていれば、建物の存在を感じられないように、自然の一部である日本人にとって「自然」とは、ごく身の周りにあって認識できないものであった。だからこそ、日本には「ネイチャー」を意味する言葉がなかったのである。

ただし、日本には「天地(あまつち)」という言葉はあった。天地は、人の住む世界だけを表す言葉ではない。すべての生物が天と地の間に住まっている。そこには人の住む空間と、野生生物の住む空間の区別はない、これが日本の自然観だったのである。・・・

 

ということで。

「自然」が外にあるという概念は明治以降に西洋から持ち込まれた、ということなのですね。

こういった西洋的な「自然」の概念も取り入れつつも、日本はアニミズムの精神で自然のあらゆるところに神様が宿ると考え、たくさんの自然神は豊かな恵みをもたらしてくれると共に恐ろしい荒ぶる脅威ももたらす表裏一体での関係だという風に捉えている、と書かれてありました。

 

こうして日本は外国からもたらされる変化を受け入れ、逆境となる「天災」も数多く乗り越えてきたといった点では、日本人は雑草によく似ている、と著者は言います。

雑草は変化を好機とし、踏まれるとか草取りをされるような過酷な場所で、特殊な進化を遂げて発展してきた、と。

「大きな力に逆らわず、しなやかに受け流す、そして、その逆境を力に変える」

これが雑草の戦略であり、その姿は、大きな変化を乗り越えてきた日本人の姿をまさに連想させる、とあります。

雑草は、花を咲かせて種子さえ残せればいいという「不変の核」のために、伸びていく方向や種子の運ばれ方をその境遇で柔軟に変化させながら生きているのだそう。

今はまさにコロナや災害で、身動きがとりにくい状況にありますが、「雑草力」に学ぶ日本人ならではの「しなやかな強さ」で、したたかに変化に対応していきたいものですね…。

 

後回しにしていた草取りは、「雑草魂」強めの旦那がやってくれた~w(^o^)丿